10.もう一人


 森の中は静と闇だけが広がっていた。

仮に”無”という場所が存在するならば、此処はまさしくそれに相応しいとさえ思える。
私は引き返す際困らないようにと、持ってきた白いペンキで
道中必要以上に神経質な間隔で目印を付けていった。

しかし森を歩いて暫くして気が付いた。
付けていたはずのペンキの目印が消えていたのだ。
私は慌てて引き返すが、消えた痕跡すら残っていないのはそう離れた場所ではなかった。
いや、これは明らかに何者かによって消されたものであり、
私はここで初めて他の誰かがこの世界に居ることを知った。
そしてその瞬間であった。
耳からではなく脳内を通じて直接、
笑い声とも叫び声とも言えぬ不気味な声が響いた。

わたしは全身に悪寒が走り、今この場所に居ることが恐くて堪らなくなった。
声の主はその後も頭が引き裂かれそうな奇声を発したかと思えば
耳元でドンドンと何かを打ち鳴らすような大音響を発したりと止まることを知らない。
森を引き返そうにも、どちらへ向かえばよいのか分からず、
ついには平衡感覚をも失い、立っていることすらままならない状態に陥った。
上を見やれば森の木々が今にも私を喰いちぎらんとしているようにも思え、
下を見やれば枯れた木の葉や腐った樹根が体を蝕んでいくようにも思えた。
ありとあらゆる幻覚に襲われ、それと同じく体を地面に擦り続けた為、全身傷だらけになった。
既に視界は大きく歪み、周囲の様子を認識することすら困難だ。
やがて体は疲弊しきり、動くことすらできなくなった。

その後の事はもう何も覚えていない。
いや、思い出したくないといったほうが適切なのかもしれない。


ただひとつ言えることは、私は一度ここで死神に会ったということだ。



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